湯を沸かす
2018-09-18
た(Ta)
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質問を受けた。「湯を沸かす」と「水を沸かす」では、どちらが正しいの?答えて曰く、「湯を沸かす」が正しい。「水を沸かす」なんて表現は聞かない。、、、と、言ってはみたものの、考えれば考えるほどわからなくなってきた。
「沸かす」と「沸騰させる」は同じ意味である。「ヤカンで湯を沸かしなさい」と言われた場合と、「ヤカンで水を沸騰させなさい」と言われた場合とでは取る行動は同じである。ヤカンに水を入れ、火にかけてお湯にする。同じ行動を促す、即ち、同じ意図を持つ同じ意味の言葉であるにもかかわらず、行為の対象(目的語)は、「沸かす」では「湯」でないとおかしいし、「沸騰させる」では「水」でないとおかしい。「水を沸かす」や「湯を沸騰させる」では違和感しか感じない。ところが、「沸かす」、「沸騰させる」と何度もつぶやくうちに混乱してきた。水を沸かして、湯を沸騰させてもいいんじゃないか?ゲシュタルト崩壊である。認識機能がマヒしてこのままでは日常生活が送れない。
そもそも、「沸かす」ことの本質的な意味は何であろうか?常温で水は液体である。それに熱を加えると、液体の内部から気泡が現れるようになる。水をこの温度にまで熱することが「沸かす」の物理的な意味である。言うまでもないがそれは摂氏100度である[1]。ここで着目したいのは「沸かす」という行為では目的対象が変化するということである。「沸かす」も「沸騰させる」も、水を湯に変化させることを意味している。そこで、変化させるという意味を持つ「より簡単な言葉」から考えてみよう。「作る」と「壊す」ではどうだろうか。目玉焼きを作れば、卵は目玉焼きに変化するし、花瓶を壊せば、花瓶はガラス片に変化する。
「目玉焼きを作る」では、行為の対象は変化後の「目玉焼き」である。卵を元に作るからと言って、「卵を作る」と言ってしまうと意味が異なってしまう。「花瓶を壊す」では、行為の対象は変化前の「花瓶」である。ガラス片になるからと言って、「ガラス片を壊す」では、やはり意味が異なってしまう。物理的な側面(変化の時系列)から考えると答えが出ないため、主観的心理的な側面から考察を進めてみる。つまり、人間の判断として何に価値を感じるかという問題である。卵と卵焼きでは、価値があるのは卵焼きであろう。卵は素材に過ぎない。同様に、花瓶とガラス片では、価値があるのは花瓶である。ガラス片はゴミでしかない。どちらの場合も、価値が高いと感じられる方が行為の対象に選択されている。「建てる」のは「家」であり、木材ではない。「織る」のは「布」であって、糸ではない。「分解する」のは「時計」であって、歯車ではない。対象の物理的な変化を伴う言葉においては、変化の前後で価値が高いと感じる方を目的語に取る。この一般化はそれなりの説得力を持つのではないだろうか。
「湯を沸かす」に戻ろう。湯を行為の対象に取るということは、「湯」そのものに価値を感じているからである。お茶を飲むには「湯」を用意しなければならない。それゆえ、「ヤカンで湯を沸かす」のである。ここでは価値のある「湯」が、「沸かす」の対象になるのである。「水を沸騰させる」ではどうだろうか。水を対象に取るということは、(水の方に価値があるかどうかはさておき)「湯」そのものに価値を感じていないと考えられる。部屋を加湿する場合、湯そのものは必要とされない。それゆえ、「ヤカンで水を沸騰させる」の方がしっくりとくる。湯自体に価値を感じないため、「湯」は「沸騰させる」の対象にならない。
これで、ひとまずケリが付いた。「沸かす」に対して「湯」という言葉が選択されるのは、「沸かす」という行為が価値のある「湯」を作るためだからである。直接的な「湯を沸かす」以外にも、「風呂を沸かす」でもそうだ。主観的な価値を感じさせるものが行為の対象になるのである。そして、「沸かす」と言う表現には、「価値あるものを生み出す」との意図が含まれているのである。反して、「沸騰させる」にはこの意図が存在していない。風呂など沸騰させてはむしろ価値を失ってしまう。作る系の動詞では作られた後の物に価値があり、壊す系の動詞では壊される前の物に価値がある[2]。言わずもがな、「沸かす」とは作る系の動詞(湯を作る)であり、「沸騰させる」とは壊す系の動詞(水ではなくなる)なのである[3]。「沸かす」と言った場合、変化後の「湯」が対象になるのは、作る系動詞の常として変化後に価値が感じられるため当然だったわけである。やっと、ゲシュタルト崩壊からは解放された。これで日常生活において「湯を沸かす」と自信をもって言うことができる。
ところが、最後に、問題が一つ残っている。それは今回の話にオチがないことである。困ったなぁ。オチが付かない文章を公開するのは気が向かない。「落とす」って言葉の心象はなんだろう。「信用を落とす」、「単位を落とす」、「お金を落とす」。どうやら「落とす」の対象になるのは、価値がある物のようだ。そうか、そうか。なら、「落とさない」方がいいんだね。それなら、オチなくてもいいや。むしろ、オチないほうがいいとも言える。なんて、無理やり納得して筆を置くことにする。
最後に本当のオチ。一通り書き終えた後、「沸かす」で検索すると、こんなページがヒットした。ホウホウ、「結果目的語」などという文法用語があるんかいな。なんか、似たようなこと言ってるなぁ。「花瓶を割る」とかほとんど「花瓶を壊す」と同じ例じゃん。やっぱり、ちゃんと正統に勉強しないとだめだね。結構いい線行ってると思ったのに、世間では既知のことであったようだ。でもなぁ、「沸かすは結果目的語をとる動詞だから」が答えでは納得できんぞ![4][5]
- [1] そもそも水の状態変化が摂氏の定義である。
- [2] ここの因果関係は実際には逆であろう。つまり、状態の前後で、変化後の物に価値がある場合が作る系の動詞に分類され、変化前の物に価値がある場合が壊す系の動詞に分類される。なお、「作る系動詞」や「壊す系動詞」は私の造語であり文法用語ではありません。
- [3] 心的描像の話である。物理的な変化は同じである。沸かすという場合、価値ある湯を新しく作り出すことに意識が向かい、沸騰させるという場合、もはや水ではなくなってしまうことに意識が向かう。
- [4] 例に挙がっている「ヤカンの水を沸かす」が成立する理由も、より価値を感じるものが目的語に選ばれるとした方が通りがよいと思う。ナベの水ではない、バケツの水でもない、ましてやドラム缶の水ではない、ヤカンの水こそが湯に変えたい物であるとの含意から、心理的にヤカンの水は他より価値が高い。よって、ヤカンの水と限定された場合、「沸かす」と結びつく余地が生じうる。逆に、バケツやドラム缶の水なんぞ沸かすに見合うだけの価値が感じられないのである。
- [5] もう一例。花瓶の場合、割れると価値を失う。よって価値のある花瓶が目的語となり、割れた後のガラス片は目的語にならない。「花瓶を割る」とは言えるが、「ガラス片を割る」とは言えない。しかしながら、割れた方が価値が高いものがある。例えば薪である。割る前の丸太よりも、割った後の薪の方が価値が高い。よって、この場合は「薪を割る」と言えるのである。本来、壊す系の動詞であれば変化前に価値があるのだが、丸太と薪ではこの関係が逆転している(結果として「割る」が「作る」に近い意味を持つ)。「割る」は普通の目的語をとる動詞、「沸かす」は結果目的語をとる動詞なんて言うのより、心理的に「価値を感じるものが行為の対象として選択される」とした方が理論の適用性が広い。